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貨幣史

古代~中世(紀元前~15世紀)

貨幣の始まり(紀元前~7世紀)

大昔の人々は、物々交換によって、お互いに欲しいものを手に入れていました。
しかし、物々交換では、いつも両者の希望がうまく一致するとは限りません。
そこで、穀物や布、砂金、貝殻、玉といった、誰もが欲しがり、しかも分けたり量ったり、運搬や保管するのに便利な品物が交換の仲立ちとして、利用されるようになりました。これが物品貨幣または現物貨幣といわれるものです。
やがて、物品貨幣のなかでも、とくに優れた性質を持つ金、銀、銅が広く使われるようになり、紀元前8世紀ころになると、中国や小アジアなどで、これらの金属を使った貨幣が造られるようになりました。

(左)貝貨 (中)布幣 (右)刀幣

わが国初の貨幣(8世紀~12世紀)

わが国最初の貨幣は、708年(和銅元年)に鋳造された和同開珎といわれています。中国の進んだ文化や制度を積極的に取入れようとした朝廷は、唐の開元通宝を手本として、この貨幣を造りました。以後、250年の間に、12種類の貨幣を発行しましたが、これをまとめて皇朝十二銭といいます。貨幣は、初めはなかなか普及しなかったため、朝廷は貨幣を貯めた者に冠位を与えたり、役人の給与を貨幣で払うなどして、貨幣の流通に努めました。

しかし、この皇朝銭は改鋳のたびに銭貨の質を低下させたり、新銭1と旧銭10を交換したことなどから、やがて民衆の間に銭離れが起こり、10世紀末には皇朝銭の鋳造が停止され、再び籾(もみ)などの物品貨幣が使われるようになりました。

なお、最近の研究により、「富本銭」がわが国最初の鋳造貨幣といわれるようになりました。

(左)開元通宝 (中)和同開珎銀銭 (右)和同開珎銅銭

渡来銭の使用(12世紀~15世紀)

平安時代も末期(12世紀頃)になると、農業や手工業の発達を背景に交易が盛んになり、それに伴って貨幣の需要が急速に高まってきました。しかし、すでに皇朝銭は発行が停止されていたため、主に日宋貿易を通じて流入した中国銭(宋銭)が、わが国の貨幣として使用されるようになりました。日宋貿易では、わが国は砂金、水銀、硫黄などを輸出し、代わりに大量の宋銭銅銭を輸入したのです。

宋銭は、鎌倉時代にも引続き幕府公認の貨幣として使用されましたが、続く室町時代には、主に明銭も大量に輸入されています。ところが、それでもなお銭貨が不足したため、渡来銭を真似て鋳造した私鋳銭(鐚銭※)が大量に造られました。

こうした状態は、江戸時代の初頭まで続きました。

  • 鐚銭(びたせん)・・・価値の低い粗悪な銭。

代表的な渡来銭

近世(15世紀~19世紀)

戦国武将と金銀貨幣(15世紀~16世紀)

(左)ひるも金
(右)粒状砂金
(秤量貨幣)

戦国時代に入ると、各地の諸大名による城下町の建設や楽市などの商業振興策によって、商工業が飛躍的に発達しました。その結果、高額貨幣の需要が増大し、諸大名によって金銀貨が鋳造され、渡来銭に並存して流通するようになりました。

また、金銀は軍資金としても重要視されたため、諸大名はこぞって金銀山の開発に努め、方々で鉱山の争奪戦を繰り広げるようにもなりました。

こうして金・銀の生産は、最盛期を迎え、多くの金・銀貨が造られていきましたが、これらの殆どは、いずれもその重量によって、交換価値が算出される秤量貨幣でした。

武田氏の幣制-甲州金(15世紀~16世紀)

戦国諸大名によって造られた各種の金銀貨が秤量貨幣であったのに対して、甲州金は7段階におよぶ量目体系に基づいて造られた計数貨幣でした。
しかし、甲州金も古くは、碁石金や延金などの秤量貨幣で、その後、鋳造や秤量の技術が進歩するに伴って、次第に計数貨幣化していったものと考えられています。

武田氏が滅亡した1582年(天正10年)の後、徳川家康は、甲斐の完備した民政方式とともに、この優れた甲州金の制度を、江戸幣制の中に取入れました。また、甲州金を例外的な地方貨として、その後も甲州国内において通用させることを認めたのです。

甲州は、フォッサマグナや中央構造線という地質構造をもち、その周辺地域において、金の鉱脈に恵まれていました。
ここから採掘した金によって甲州金制度が確立したのですが、甲州金山は、信玄時代に最も隆盛を極めたといわれます。

これらの金山の経営にあたっていた金山衆(かなやましゅう)とよばれた人々は、城攻めにも参加し、鉱山技術を生かして城の石垣を崩したり、井戸を渇水させて兵糧攻めを成功に導くなど、多大な成果を挙げました。

江戸時代の幣制(17世紀~19世紀)

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌1601年(慶長6年)には金銀貨の鋳造を開始しました。金貨は、四進法の貨幣単位を持つ計数貨幣でした。一方、銀貨は丁銀、豆板銀と呼ばれる秤量貨幣でした。

このように性質の異なる金貨と銀貨を併用したのは、関東では早くから金が流通していたのに対し、関西では古くから銀を量って通貨としてきた伝統があったためでした。

また、1636年(寛永13年)には銅銭(寛永通宝)の鋳造も始まり、ここに金貨、銀貨、銅貨の"ゼニ、カネ"の3種からなる三貨制が採られることになりました。

両替商

それぞれ貨幣の体系が違う金、銀、銭のスムーズな流通をはかるために生まれたのが両替商でした。

近現代(明治時代~昭和時代)

幣制の混乱と円の誕生(明治時代)

わが国の近代化を急務とする明治政府にとって、幣制の整備は差し迫った課題でした。しかし、当初は通貨制度を整備するゆとりはなく、旧幕藩時代の金銀銭貨や藩札などをそのまま通用させる一方、両・分・朱単位の太政官札や民部省札などを発行し、さらには民間の為替会社にも紙幣を発行させるという状態で、幣制は混乱を極めました。
政府は1871年(明治4年)新貨条例を制定し、金1.5gを1円とした近代洋式製法による新貨幣を発行して、近代的な貨幣制度を確立しました。円の誕生です。
そして、1872年(明治5年)、幣制統一の手始めとして、藩札や金札などを整理する目的を以て、明治通宝を発行しました。

国立銀行と紙幣発行(明治時代)

1872年(明治5年)、政府紙幣の回収と殖産興業資金の供給を目的として、アメリカのナショナルバンク制度に倣った国立銀行条例が制定されました。
この条例に基づいて、当初4行の国立銀行が設立され、国立銀行紙幣が発行されました。
その後、1876年(明治9年)の条例改正によって、事実上不換紙幣の発行が認められたことに伴い、多くの国立銀行が設立され、1879年末(明治12年)には153行を数えました。
こうした中で、当行の前身である第十国立銀行も、1877年(明治10年)4月に、全国で9番目の国立銀行として設立されました。

日本銀行の設立(明治時代)

1877年(明治10年)の西南戦争の勃発に伴って、戦費調達のために政府紙幣や国立銀行紙幣が増発されたことなどから、激しいインフレが発生しました。

これは、厳しい財政緊縮と紙幣の回収整理によって収束されましたが、その過程で、兌換銀行券の一元的な発行によって紙幣の乱発を回避し、通貨価値の安定を図ることの必要性が認識され、1882年(明治15年)、中央銀行として日本銀行が設立されました。

日本銀行券は、1885年(明治18年)に銀貨と引換えのできる兌換銀券として、初めて発行されました。ついで、1897年(明治30年)金本位制が採用され、金0.75gを1円とする貨幣法が制定されたことに伴い、金貨と引換えのできる日本銀行兌換券が発行されました。

管理通貨制度への移行(昭和初期)

金本位制の下では、日本銀行が発行できる銀行券の総額は、保有する金の範囲内と定められていました。しかし、昭和に入り、軍費を中心に資金需要が急増したため、日本銀行が保有する金の量を超えて銀行券を発行する必要が出てきました。

1931年(昭和6年)、イギリスが金本位制を離脱したため、わが国も同年12月に金の輸出を禁止し、日本銀行券の兌換は原則として停止されました。

1941年(昭和16年)には、金の保有量に制約されることなく、銀行券が発行できるようになり、その翌年の日本銀行法の制定により法律上も兌換の義務がなくなって、わが国は名実ともに管理通貨制度へと移行しました。

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