所有権ってなんだろう?〜「持つ」ことの意味の歴史をご紹介
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何かを持つことは豊かさの象徴であり、⽣活の⼟台でもあります。しかし、ふと⽴ち⽌まって考えてみると、「所有する」とはいったいどういうことなのでしょうか。
「所有」はもともと「引き受ける」ことだった
⽇本語で「所有」に相当する古い⾔葉に「知⾏(ちぎょう)」があります。知⾏とは⼟地を管理して収益を得る⾏為を指しますが、⽂字通り「知って⾏う」、つまりその⼟地の状況をよく知り、責任を持って治めるという義務を含んでいました。
「持つ」ことは「引き受ける」こと、責任を持って次の世代に渡すことでもあったのです。
こうした感覚は⽇本だけのものではありません。英語の「own(所有する)」と「owe(借りがある)」は同じ語源を持ち、「proper(適切な・ふさわしい)」と「property(財産)」も同じ語源でつながっています。
スーパーやネットでお⾦を払えば⽣活必需品が⼿に⼊る現代とは事情が違い、当時は⼟地から得られる⾷べ物や資源こそが⼈々の暮らしの源でした。⼟地の所有の概念が今とは⼤きく異なるのは、ある意味で当然だったかもしれません。
近代社会で変わった「所有」の意味
所有の概念は、近代市⺠社会への移⾏とともに⼤きく変わることになります。近代市⺠社会では、⾝分制度や封建的な特権が廃⽌され、⾃由と平等の理念のもとで私的所有権が確⽴されました。資本主義経済と⾃由競争のなかで、個⼈が財産を持ち、利潤を追求することが当然の権利となったのです。⼈の労働や企業活動が規格化された時代とも⾔えます。
所有権は、個⼈の⾃由と尊厳を守るための重要な権利となりました。⼀⽅、⾃分が所有する物は⾃分の意志で⾃由に使え、開発でき、売ることも壊すことも、ただ放っておくこともできるようになりました。
哲学者の鷲⽥清⼀は著書『所有論』の中で、こう指摘しています。
「《所有[権]》の概念が、近代の所有論がまるで⾃明のように等置してきたように、それが⟨可処分権⟩という概念とじかに連結しているからであろう。 ⟨可処分権⟩とは、「意のままにしてよい」ということである」―出典:鷲⽥清⼀「所有論」(2024 講談社)
「預かりもの」から「意のままにしてよいもの」へ。この転換が、現代の私たちの所有観の⼟台になっています。
「個⼈」の誕⽣と所有権―デュルケームの視点から
19 世紀フランスの社会学者エミール・デュルケームは、『社会分業論』のなかでこう指摘をしています。近代以前の社会では、⼈々は家族や村落、職業集団といった共同体のなかに埋め込まれて⽣きていました。そこでは「⼈」はいても、「個⼈」という概念はまだ存在しなかった。したがって「個⼈の⾃由」という観念もなかった、というのです。
産業化と都市化が進み、⼈々が農村から都市へと移り住むなかで、伝統的な共同体は解体されていきました。⼤家族は核家族へ、世襲の職業は⾃由な労働市場へ。そうして⼈々は、はじめて共同体から切り離された「個⼈」として社会に現れたのです。
デュルケームは、この変化に伴って法律も変わったと論じました。共同体の秩序を守る刑法中⼼の社会から、個⼈間の契約や財産を規定する⺠法中⼼の社会へ。所有権とは、まさにこの「個⼈の時代」の産物だったのです。
共同体のなかでの「所有」と、個⼈としての「所有」は、同じものか?その再定義がなされないまま現代に⾄っているとしたら、社会にさまざまな弊害が⽣まれそうです。
「意のままにしてよい」がもたらしたもの
鷲⽥清⼀は同じく『所有論』の中で、現代社会における所有権の問題をこう指摘しています。
「 《所有権》は、歴史のある段階で、個⼈の(場合によっては組織や団体の)⾃由と独⽴と安全とをぎりぎりのところで護る権利として措定されたはずなのに、現代社会ではそれが過剰なまでに脅迫的にはたらきだして、逆にそれがその⾃由と独⽴と安全にとって⾜枷や縛りや桎梏(しっこく)として⽴ちはだかる、そのような場⾯が増えている。マンションの建て替えや空き家の処分の難航、著作権の厳格さからくる制作や表現の困難、家族の孤⽴、地域⽣活におけるおおらかさの消失、「⾃⼰責任」という名の他者への切り捨てから、⼈⼯中絶や安楽死の問題、さらに故国からの脱出やはるか離島の領有権をめぐる攻防まで、《所有権》という観念は、寄りあいや助けあいや譲りあいの場を、あるいは⾃他のグレイ・ゾーンやコモンな空間を、いよいよ狭め、消し去らんばかりである。」
―出典:鷲⽥清⼀「所有論」(2024 講談社)
現在、空き家問題や所有者不明⼟地問題はますます深刻化しています。
令和6 年(2024 年)の国⼟交通省の調査(「令和6 年度 所有者不明⼟地調査」)によると、所有者不明⼟地は全国の⼟地の約23%を占め、⾯積にして九州より広い約410万ヘクタールに達しています。発⽣原因の63%が「相続登記の名義変更未了」、29%が「住所変更登記の未了」です。
こうした問題は⽇本だけのものではありません。アメリカでは「Heirs' Property(相続⼈共有地)」と呼ばれる同様の問題が深刻化しており、ドイツでは⼟地の所有権放棄を認める制度が定められました。⽇本でも相続⼟地国庫帰属制度が設けられるなど、各国が対策に乗り出しています。
また、⽇本の空き家は900万⼾を超え、地域の景観や安全を脅かしています。たとえ建物が廃墟になっていても、所有権という壁が⽴ちはだかり、簡単には⼿を出せません。
過剰に所有権が適応された結果、本来所有によって「守るべきもの」が、守られるどころか、次の世代へ渡すことすらできない事態に陥っています。「意のままにしてよい」が、「放置してもよい」「関わらなくてもよい」ということになっているのです。
「持つ」から「シェア・共有する」へ
こうしたなか、私たちの暮らしに静かな仕組みが広がりつつあります。カーシェア、シェアサイクル、サブスクリプションなど、「共有する」という選択肢です。
たとえば、カーシェアリングは世界的に急成⻑しており、市場規模は2025 年に100 億ドルを超え、2030年に約200億ドルを超えると予測されています。⽇本でも、都市部を中⼼に近年広がっています。
また、シェアサイクルは⽇本より海外の⽅が先⾏しています。フランス・パリでは2007年から公共シェアサイクル「ヴェリブ(Velibʼ)」が始まり、市内約1,400 か所以上のステーションに約2 万台の⾃転⾞が配置され、どこでも借りてどこでも返せる仕組みが整いました。路上駐⾞スペースを削減し、⾃転レーンやシェアサイクルのステーションに変わるケースも増えていす。
フランス・パリの公共シェアサイクル(pixbayより)
ドイツではベルリンを中⼼に、鉄道・地下鉄・バスといった公共交通と、カーシェア・シェアサイクル・電動キックスクーターなどのシェアモビリティを、MaaS(Mobility as a Service)アプリでひとつにつなぎ、検索から予約、決済までをスマートフォン⼀台で完結できる仕組みが広がっています。
こうしたシェアの流れが広がっている背景には、単なる利便性や節約の理由だけでなく、地球環境というコモン(共有財)を守るために、「持つ」ことの意味を問い直す意識があるのかもしれません。
所有権という概念が⽣まれた背景には、個⼈の⾃由・尊厳を守りたいという切実な願いがありました。それは今でも変わらない大切な価値です。
⼀⽅で、不動産も⾦融資産も知識や技術など、私たちが持っているものは、実は社会や歴史のなかで育まれ、積み上げられてきたものとも⾔えます。
それを「意のままにしてよい」と考えるよりも、先⼈から受け取り、次の世代へと渡していく「預かりもの」。そんなふうに捉えてみると、「持つ」ことの本当の意味が⾒えてくるかもしれませんね。
written by ヒノキブンコ