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シンガーソングライター伸太郎さんインタビュー

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山梨を代表するシンガーソングライターのひとり、伸太郎さん。ラジオ番組や地元企業のキャンペーンソング、ヴァンフォーレ甲府の公式応援ソング「GO TO THE TOP」など山梨に住む人にはおなじみですね。一定以上の年代の人にはヒットシングル「白い風」も記憶に残っているはず。最近では伸太郎さんが敬愛する歌手・松山千春さんをカバーするなど活躍しています。

地元を拠点に活動する伸太郎さんは今年で歌手活動25周年を迎えます。アニバーサリーイヤーの伸太郎さんに、活動を振り返ってもらうインタビューを行いました。知っているようで知らない、シンガーソングライター伸太郎さんのルーツとこれから。

伸太郎「大切なのは与えられた環境の中でいかに楽しむか」

-伸太郎さんは甲府市羽黒出身とのことですが、早速生い立ちを教えていただいてもいいでしょうか?

伸太郎:僕の家は大衆食堂を営んでいたんです。いろんな人がお客さんとして店を訪れていたから、普通のコよりも大人たちとの接点は多かったと思いますよ。自然とそういうところで人の目に触れる度胸みたいなもんが養われていたかもしれません。今考えると宴会場にいわゆる「8トラ」(ハチトラ)のカセットと再生機があって、小さいころから人前で歌って、お客さんたちに喜んでもらっていたので、ルーツはこの食堂にあると思います。

-伸太郎さんと言うと野球をやっていたことでも知られています。

伸太郎:そうですね。5回くらい辞めてまた復活してという感じですがなんだかんだ続けていました。高校は野球で山梨学院高校(当時は山梨学院大付属高等学校)へ進みました。

ーその頃には歌はもう始めていたんですか?

伸太郎:やってましたね。そもそも一番最初は中学校の学園祭かな。モテたくてギターを始めて、動機はみんなと一緒ですよ(笑)。

-バンドじゃなく最初から弾き語りのスタイルだったのはなぜですか?

伸太郎:僕、バンド組めない性格なんですよ。一番目立ちたいから。

-そこから野球とギターを並行して続けていったんですね。

伸太郎:そうですね。高校では野球をやりながら学園祭のカラオケコンテストで優勝したり、歌うことでフラストレーションを発散していました。ある時、ロッカールームで、「監督のバカ野郎」っていう歌を歌って、部員たちと盛り上がってたんです。僕含め、世代的にも長渕剛さんに影響受けているんで、みんな拳を突き上げて大合唱(笑)。そしたら急にしんとなるから、「あ、これ後ろに監督いるな?」と思って。でも止めずに歌い切りました。

-修羅場の予感がします。

伸太郎:そしたら監督が、「お前を面白い人に会わせたい」と言うんです。僕らは、今はプロ野球独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサス監督の牧野塁が投げていた世代で、期待されていたんですが夏の大会で負けてしまうわけです。甲子園出場は叶わなかった。で、引退してやることないからストリートライブとかをやっていて、そんな時に監督に伊豆の宇佐美に連れて行かれました。
着いたらそこはワインレッドのジャガーが2台止まっている大豪邸。そこはなんと作詞家の阿久悠さんの家だったんです。

-超大物じゃないですか。

伸太郎:そこで歌を歌ったんですけど、「この道に入っておいで」と言ってくれたんです。しかも、「君の歌声はこの曲が合うね」って聴かせてくれたのが沢田研二さん「時の過ぎゆくままに」でした。

-すごい話ですね。阿久悠さんの前で歌を歌うというのはちょっと想像すらできないですが、何か、印象的な言葉とかはありましたか?

伸太郎:「今からは(曲を)作れる人が世に出ていく」とおっしゃっていましたね。今ではひとりで作曲、作詞、歌唱まで全部やるシンガーソングライターは当たり前ですけど、やはり先見の明があったと思います。それで僕はシンガーソングライターになることを決めました。さらに「高校を卒業したら母校のコーチを3年間やりなさい」と言われて。

-その心は?

伸太郎:いわく、「野球に人間の姿の全てが詰まっている」とのことでした。阿久悠さんは野球が大好きなんです。新聞にコラムを寄せるくらい。その言葉通り、卒業してから山梨学院高校の野球部のコーチを3年間やりました。阿久悠さんがバイトもしちゃダメだと言うので野球と音楽だけ。修行でした。

-伸太郎さんのキャリアに置いて野球から得たものは大きいですか?

伸太郎:今振り返って考えるとすごく良くわかります。与えられた環境の中でいかに楽しむか、ということや大変な環境でもがくからこそ、人を思えるようになる。本当に色々な人間ドラマが野球には詰まっていて、それを客観的な視点で見ることができた。洞察力や感情を読み取る力は養われたと思います。コーチとして甲子園球場の土を踏むことができました。感慨深かったですよ。シートノックなのにテンション上がっちゃって、バース、掛布、岡田、以来の甲子園球場バックスクリーン3連弾を放り込んだ時の話は僕のWikipediaに載っているのでぜひ読んでみてください(笑)。

伸太郎を突き動かした松山千春の言葉、地元への愛

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-その頃の音楽活動はいかがでした?

伸太郎:若手の登竜門的な長崎放送主催の「長崎歌謡祭」に山梨代表として出場しました。TBS系列の各局が推薦した若手ミュージシャンが全国から集まる大会で、福岡代表の椎名由美子というミュージシャンと仲が良かったんです。当時、いろんな現場で顔を合わせていて、「兄さん兄さん」みたいに慕ってくれていました。でも結局、椎名と僕は予選で落とされてしまった。納得がいかなくて、2人で審査員に異議申し立てをしたんですよ。そしたら熱意を買ってくれて、2人のためのステージを用意してくれて歌うことができました。それが、のちの椎名林檎さんです。

-またすごい名前が出てきましたね。大会の反響はありましたか?

伸太郎:サンミュージックの相澤社長(相澤 秀禎=サンミュージックプロダクションの創業者で初代社長)が大会を観て連絡をくれました。で、佐久間英明さんという、BOØWYとかTHE BLUE HEARTSとか、JUDY AND MARY、GLAYといった超一流のアーティストを世に送り出したプロデューサーさんに会わせていただき東京に出て活動をすることになりました。

-都内ではどんな活動をしていたのですか?

伸太郎:ストリートライブや曲作りをバイトしながらやっていました。それこそ、渋谷ハチ公前とかね。当時はそれはそれで楽しかったんですけど、野球関係の仕事で松山千春さんに会わせてもらったことがありました。ニッポン放送のラジオの現場に行かせていただいたんですが、「地元の人に愛されなくて何が全国だ」みたいなことをおっしゃっていたんです。松山千春さん、僕は好きだし尊敬しているミュージシャンなので、感銘を受けましたね。「山梨で愛されるシンガー」になろうと思った瞬間でした。

-それで山梨に戻られたんですか?

伸太郎:千春さんの言葉を胸に秘め、最後のチャンスに挑みました。

-戻ってからも、活動の軸はストリートライブだったんですか?

伸太郎:そうです。路上ライブ。甲府の春日モール商店街で200人くらい集めました。あとは自主企画で、ライブハウスではやりませんでした。旧山梨県民会館や甲府市総合市民会館とかでやっていました。

-山梨じゃなくても200人の路上ライブってすごいと思います。どうやってそんなに人を集めたんですか?

伸太郎:色々工夫をしましたけど、東京でやっていた経験が大きいかと思います。ハチ公前でやっている時にね、300人くらい集めている人たちがいて、自分と比べて何が違うのか観察しました。そこで意識が変わりましたね。

-どんな風に変わったんですか?

伸太郎:1番は、みんなで一緒に楽しもうという意識です。今は当たり前ですけど、MCを挟んだり、お客さんのノセ方だったりを自分のライブでも取り入れるようになりました。それまでは、自分のためにしか歌っていなかったように思います。歌い手の意識が変わると、ガラっと場の空気が変わるんです。それで、どんどん人が集まるようになっていきました。

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-そして、やはり伸太郎さんというと2002年、ソルトレイクオリンピック全国民放ラジオ統一テーマソング「白い風」での全国デビューですよね。その時のお話もお聞きしたいのですが、どのようにして生まれたんですか?

伸太郎:もともとは地元テレビ局の企画です。映画監督の井筒監督が出演されていて、「ストリートミュージシャンに富士山をテーマに歌を書かせてみたら?」という企画で1番最初に話が来ました。放送終了後にファンの方たちが署名活動をしてくれて、山梨県版、そして全国でリリースされることになりました。
今だから話せますけど、あの曲はテレビのプロデューサーが「45秒以内に山が連想できる歌じゃないと使わない」と言われていて、僕はちょうど一週間前に富士山に登っていたんです。その時のことを思い出しながら、15〜6分で詞とメロディをつけました。

-さらに、プロデューサーに長渕剛さんや中島みゆきさんを手がける瀬尾一三さんが参加しています。

伸太郎:僕は長渕剛さんに憧れて、ギターを始めたのでこんなに嬉しいことはなかったです。

-全国リリースされてからは数日で1万枚のセールスを記録していました。実生活への影響もすごかったんじゃないかと。

伸太郎:冗談じゃなくてまだSNSとかもない中で、家バレして引っ越しを繰り返すみたいなことになってました(笑)。テレビ・ラジオのCMで一日90本近く流れてまして、とにかく大変な時期でした。

-伸太郎さんはギターにも富士山が入っています。こちらのギターも存在感がありますが、こだわりをお聞かせください。

伸太郎:このギターは、2013年、国民文化祭、国文祭が山梨で行われた際に、制作しました。当時の皇太子殿下の前で歌わせていただいた思い入れの深いギターです。松山千春さんが漆の装飾が入ったギターを使っているんですけど、僕と山梨を象徴する富士山を入れてもらいました。メガネの街として有名な福井県の鯖江で加工してもらっています。ストラップはみなさんご存知、山梨が誇る甲州印伝の上原勇七さんのものですね。

音楽の神様のいたずらと、人との繋がりが支えた25年。「感謝しかない」

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-歌手活動25周年を迎えて、今後のことについてもお聞きしたいです。今回、色々振り返ってみていかがですか?その心境をお聞かせください。

伸太郎:25周年を迎えたことはとても感慨深いですが、このコロナ禍で、音楽活動ができない時間も多かったので悩んだことも多いです。というか毎日辞めようと思い続けてきたけど、挫けそうな時に音楽の神様はいろんな出会いをくれました。例えば、22歳で(松山)千春さんに出会い、2011年には再会して全日本フォークジャンボリーの前座に出演させてもらいました。その時、千春さんも覚えていてくれて、2013年、2020年には千春さんの楽曲をカバーしたシングルをリリースさせてもらえたのも嬉しかったですね。

-地元のテレビ、ラジオでも引き続き活躍されています。

伸太郎:コロナ禍の中、UTY(テレビ山梨)の番組の中で「伸太郎のうたメシ」という番組が始まりました。いろんなお店に行って、食べて30秒で歌にするんですけど、地元飲食店さんの助けになれたらすごく嬉しいと思いますし、FM FUJIのラジオにもずっとお世話になっています。感謝の気持ちしかないですよ。ありがとうございます。

-山梨学院とも未だ関係性が深いですよね?

伸太郎:山梨学院にも大事にしていただいてますね。「監督のバカ野郎」から始まって(笑)野球と母校に地盤を築いてもらったので本当にありがたいです。校歌の歌唱で卒業式に呼んでもらって卒業式の退場時に歌を贈らせてもらったり、野球でも応援歌を提供させていただいてます。チャンスの時に流れるんですけど、第91回選抜高校野球大会で北海道札幌第一とやった時、24点取って歌流れっぱなしで(笑)。千春さんは北海道なんで、その話をラジオでした時は笑ってました。

-他にも小学校の校歌を手がけています。

伸太郎:甲府市立善誘館(ぜんゆうかん)小学校という、富士川小学校と琢美小学校が統合した小学校の校歌を制作させていただきました。他にも地元企業のCMだったり、音楽を通じていろんな仕事をいただいていますから、これ以上のことはないです。25周年は、一生懸命やって、みなさんに恩返しする時期ですね。

-甲府市総合市民会館で12月11日(土)に25周年記念のライブも開催されます。今、お話できる範囲で、内容について教えてください。

伸太郎:今までにない規模で、映像でも魅せる内容になっています。昔の映像を使ったり、僕の歴史・ヒストリーを辿るようなライブになっているので、ぜひ期待して欲しいと思います。あと、土曜日の14時開演という時間にこだわっていますね。

-というと?

伸太郎:ライブのあと、家族や友人たちと甲府の飲食店で食事して欲しいんです。ライブやフェスのあと、感想を話ながら帰るってなんか良いじゃないですか。地元のご飯屋さんで僕のライブを話のタネに、甲府のお店に足を運んでもらえたらと思います。

-最後に、25周年を迎えた伸太郎さんからメッセージをお願いします。

伸太郎:22歳で東京から山梨に帰ってきて、ストリートライブを始めるところから25年を数えています。歌はずっと歌っていますが、本当の意味で伸太郎が生まれたのはその時でした。振り返ってみると僕自身、歌を通じてたくさん笑顔になれました。だから僕も、みんなが笑顔になる歌をこれからも歌っていきたいと思います。応援よろしくお願いいたします。

Article written by VALEM co., ltd.

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