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テーマ展示(甲州財閥)

若尾逸平

若尾逸平

1820年(文政3年)不毛の地"原七郷"の巨摩郡在家塚村(南アルプス市)の貧農の子に生まれた。

幕末時に天秤棒一本の行商から身を起こして、開港時の横浜と甲州を股にかけ、生糸・水晶などの商いにより巨万の富を築いた。

維新動乱の折、彼は新政府にたびたび大金を献納し、名主格を仰せ付けられた。また、蚕種製造人大総代・生糸改会社副社長に任じられて、蚕糸業の支配権を強化すると同時に、山梨県官金為替の取り扱いを拝命するなど、着々と新体制のなかでの地位を固めていった。

1870年代~1880年代のわが国経済は、激変の繰り返しであった。機敏で洞察力の鋭い彼にとって、こうした経済混乱は絶好の活躍の舞台となった。なかでも、本県では、松方デフレによる米価の下落と、地租の急騰による生活の困窮から、滞納による強制処分や、土地売買質入れが相次ぎ、多くの農家が小作農に転落し、本県は、全国屈指の地主資本集中県となった。とりわけ、疲弊した農家への貸し付けが巨額であった若尾の蓄財は、群を抜くものであり、1890年(明治23年)第1回貴族院多額納税者議員に選ばれたとき 「彼の直接国税納付額は、選出された全国多額納税者議員中の3位」といわれる全国屈指の大富豪にのし上がった。その後、1888年(明治21年)、横浜正金銀行の取締役に、1889年甲府市の初代市長に、1890年帝国議会、貴族院多額納税議員に、それぞれ選ばれた。1892年に東京馬車鉄道を買収、1893年に若尾銀行を創立するなど、社会的地位を確立し、名実共に実業界の雄として君臨することとなった。また、議員時代、鉄道敷設法の実現に努力し中央線の開通に貢献した。その後、49連隊の設置にあたっては、兵営敷地として10万坪の土地を寄付(2代目、民造)するなど社会的にも貢献した。

1913年(大正2年)9月7日没。94歳。

雨宮敬次郎

雨宮敬次郎

1846年(弘化3年)、山梨郡牛奥村(甲州市)に生まれた。
14歳の時、商人を志して行商生活に入った。やがて、彼の足は江戸や開港後の横浜に向けられた。彼の商業には投機性が強く、後に「投機界の魔王」と呼ばれたが、このころの活動に根ざしていたと考えられる。

1876年(明治9年)から翌年にかけて欧米に遊び、帰国後、軽井沢で開墾事業を進め、50戸余りの一村落をつくった。これは後に雨宮新田とも雨宮村とも呼ばれた。

彼は鉄道の発達と製鉄事業の興起をしきりに力説、経営もそれらに重点が置かれた。1888年(明治21年)、甲武鉄道、1891年、川越鉄道の取締役となって、彼の経営は鉄道にのびていった。彼が社長となった日本鋳鉄会社も、東京に水道が敷設されるについて、鉄管を外国から輸入する代わりに、国内でそれを鋳造しようという考えから設立されたものであり、また、仙人鉄山の開発も、同じ構想に基づいたものであった。

1903年(明治36年)、中央線が甲府まで開通したが、その時、雨宮が、家の近くに鉄道を引っ張って来ることを約束したという話が伝えられている。一説には、勝沼周辺の住民が土地を買収されることや、煤煙による被害をおそれて反対したからだとも伝えられているが、塩山へ中央線が回ったのは、雨敬の政治力によるものだというのである。こうした話に象徴された彼の豪胆な性格と偉大さが、一つの伝説を生み出したのかもしれない。

1911年(明治44年) 1月20日没。63歳。

根津嘉一郎

根津嘉一郎

1860年(万延元年)山梨郡正徳寺村(山梨市)に生まれた。

幼名栄次郎・のち隆三といい、兄にかわって家を相続するとき嘉一郎と改めた。村会議員を振り出しに郡会議員、県会議員、村長、衆議院議員、貴族院(勅選)議員を歴任。また実業界に雄飛して縦横に活躍。東武鉄道、南海鉄道、帝国石油、日清製粉、日本セメント、日本麦酒鉱泉、東京電燈、富国生命など有力事業200余社を創設または経営し、「鉄道王」とうたわれ、甲州財閥の巨頭であるとともに、わが国、実業界における世界的巨人とたたえられた。また、私財を惜しみなく投じて公共事業の振興に努め、7年制の武蔵高等学校(現在・武蔵大学)の創設をはじめ、全国の学校教育に尽くし、郷里山梨県においても平等小学校、県立図書館の建設、県下全小学校に対するピアノ寄贈のほか、根津橋をはじめ公共施設に対する援助も巨額にのぼった。

1940年(昭和15年) 1月4日没。81歳。

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